『書く習慣』に、一所懸命書いた文章は案外読まれないもの、だから本音を書いたら良い、その方が面白い文章になる、とあった。
そんなものだなあ、と思うが、一方でネット上の不特定多数の人々、あるいはロボットに文章を発信する行為はパノプティコンを思い出させる。
ベンサムが考案した、監獄における一望監視装置だ。
囚人からは、見張りの人が見ているか見ていないから分からないから、見られている時のように振る舞わざるを得ない装置。
マジックミラーに似ているが、見られているとは思っていないという点で違う。
これを踏まえてフーコーが、近代現代はこのように見えない権力がはたらいており、自分の意志で判断したと思っているものも実はそうではない、ということを言った。
主体が埋め込まれるのだという。
何となくピンとくる話だ。
そして思想や哲学をやる人はこの発想が大好きだ。
権力を批判するのに使いやすいのだろう。
そして皆フーコーが好きだ。
フーコーが嫌いな人を聞いたことがない。
この見えない権力を規律訓練型権力、ディシプリンという。
キング・クリムゾンファン、歓喜。
話を戻すと、読まれるかもしれないと思いながらネットへ文章を発信する行為はまさにパノプティコンで、私は規律訓練されている。
訓練されるということで、文章が少しずつでも上達すればよいのだか。