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哲学

ダンスはうまく踊れない

 ダンスとはなんだろう。

 私は小躍りした、という表現。

 キャラが立っているようで小気味良い。

 よく考えると人類は原始の頃からダンスと共にあるのではないか。

 つまり表現の方法としてはかなり古参の部類ではないか。

 その歴史を考えれば言語と同じくらいの地位があっても良い。

 言語学のようにダンス学があっても良い。

 哲学に寄っていったりして。

 舞踏という言い方をすれば、実際にかなり哲学に寄っているか。

 社交ダンスやバレエも古来からのダンスの発展形であり、そういう観点から捉え直すと興味深いが、ここでイメージしているのは儀式などと結びついているダンスだ。

 洗練されていない原始的なダンス。これを切り取って突き詰めたもののひとつが暗黒舞踏と言えるのではないか。

 学生時代、経験と思って見に行ったり、映像を観たりした。

 大野一夫、山海塾、大駱駝艦。

 大駱駝艦は胸丸出しの動画がYouTubeにあがって入るが、これは消されないのか。不思議といやらしくはない。

 凄みを感じるが、その凄みは何から来るのかわからないし語れない。

 舞踏を論じたものには未知の観点が存在するのではないか。

 この暗黒舞踏には何か凄みの秘密があるのではないか、という感覚で社交ダンスやフィギュアスケートを見ると新たな発見があるかもしれない。

 ところで大学時代、社交ダンスのサークルに勧誘されたことがある。バレーボールの授業で一緒だった人に。

 その人は背が高くて格好良かったのでダンスが似合う感じだったが、そんな感じでない私がダンスをするなど恐れ多いということで興味が出なかった。

 あのとき少しくらい齧っていれば、良い経験になったかもしれない。

 しかし、異性と体くっつけて踊れるか?

 洋画ではダンスパーティーで、意中の人とチークダンスするという描写が出てくる。

 バックトゥザフューチャーとか。

 チークダンスしたい? 

 脇汗とか気にならない?

 早稲田では隣の人と肩を組んで紺碧の空を歌うのが定番だが、同性でも組んだことがない。

 妥協策として背中あたりに手を置くというパターンもあるが、肩を組む熱さには敵わない。我を忘れて興奮している感じがする。

 早稲田出身者は紺碧の空が大好きなのだ。きっと。