文系、理系と分けること自体がナンセンスという話があるが、分けることが分かることに寄与するならそれなりの意味があると思う。
実際、理系と文系が互いに言及することにより論点が浮き上がっていることもあるという。
例えば、文系は作者の気持ちでも考えてろ、などというもの言い。
文系の私は文系のコミュニティが発信するものばかり摂取しているので情報が偏っているかもしれないが、どうやら文系はなんの役にも立たない、世間や人類に貢献するのは理系、というのが現在の世間一般での扱いであるようだ。
これに対して文系はさほど反論しない。
そうかもしれないなあという感じ。
私の経験からも、このように思うのは、学生時代に理系は実験やレポートなどで相当な苦労をするようだからだ。
逆に文系は楽勝で、現に私も楽勝だった。
授業に出なくても単位は取れる程度に。
勿体無いので私は欠かさず授業に出ていたが。
今思い返せば、吉増剛造のノートなどばっちりiPadに残しておけば良かった。
2001年ではまだそのような社会ではなかったと思うが、ソシュール、ハイデガーなどの講義が素晴らしかったなどと聞くと、そのような妄想をしてしまう。
当時の早稲田でも素晴らしかった、と語り継がれていた講義はあった。
美術評論家、坂崎乙郎の講義だ。
学生時代、理系文系を選択するにあたり、本当は数学がさっぱりできないので文系を選んだのだが、自分を正当化するために、理系の自然科学は観察対象が自然なのでシンプルだが、文系の社会科学は観察対象が社会であり人間の心が関係するので複雑だ、これを対象とするので文系の方が複雑かつ高尚なのだ、と自分を納得させたものだ。
今となってはどうでも良いことだ。
むしろ、自然科学の方が過去の理論の積み重ねであるため、研究の続きを引き継げ進歩感を得られる。
一方、文系は時代によって人間の心は変わるので社会も変わる、これに対応するには最先端の理論だけ抑えたのではダメで、過去からの積み重ね丸ごと理解しないと対応できない面がある。
これは専門家でも全てフォローするには情報が多すぎるし、そもそも真理など時代によって変化するということになりそうだ。
多すぎる情報のフォローはAIに任せれば文系はもっと進歩するかもしれない。
あと42歳となり、他人と喋るのがあまり得意でなく好きでもないことを考慮すると、黙々と研究を積み上げて成果を出せるのであればそちらの方が良かったのかな、とも思う。
理系だからって黙々と研究するだけで評価されるほど甘くないか。
話を変えて早稲田大学の話をしよう。
早稲田の教育学部は教員免許を取得し先生になる人もいるが、「教育学」を学べる学部として売っていると思う。
なかなか珍しい学部だ。
2001年入学の私としては教育学部には一目置いており、文系ばかりの本キャンパスに理系の設備が設置されており、学生は白衣を着ている人もいる。
本キャンパスを正当に白衣で歩いているというのが格好良かった。
早稲田で政治学を学ぶには政治経済学部だ。
世間一般では政治学は法学部で学ぶものだ。
早稲田の法学部でも政治は学べると思うが、専門ゼミなどは政治経済学部のほうが充実しているだろう。
そもそも政治経済学部は日本ではめずらしく、早稲田の他には明治くらいか。
明治大学も商学部には落ちたが政治経済学部に引っかかった。
なので政治経済学部には愛着がある。
経済学部ではなく、経済学部で経済学の学位を取ったのだ、というちょっとした誇りとこだわり。
政治も少し知っています、という。
実際は、政治学入門、法学入門くらいの簡単な講義の単位を取れば良いだけだ。
同じように政治学科の人にも、法学部の政治ではなくて政治経済学部の政治です、というちょっとしたこだわりがあるのではないか。