今、短歌が流行っているという。俳句も流行っている?
俳句と短歌の話をするならば、まず興味を持ったのは短歌だ。
感情を揺さぶられることが好きだったので、とっつきやすかった。
私のイメージでは感情を炸裂させるのが短歌だ。
三十一文字は感情を凝縮させるのに丁度よい数なのかもしれない。
旧仮名遣いのものも格好良いが、読むのにエネルギーがいるので新仮名遣いのものをよく読んだ。
俵万智から、穂村弘、加藤治郎、江戸雪、そして中澤系。
遡って佐佐木幸綱、岡井隆、塚本邦雄。
一方で俳句はとっつきにくかったのだが、かつてNHK-BSで「俳句王国」という番組をやっており、この番組がとても面白かった。どこかに有料でよいので映像手に入らないものか。全回分ほしい。
司会が当時学生の神野紗希、有名俳人の主宰、一般視聴者で句会を行うというもの。神野紗希と主宰が取り合うことが多く、やはり良い句というものの「型」があるのだと思った。
この番組と似たような面白さは『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』(小林恭二)で味わえる。これらは名著だ。その続編『短歌パラダイス』も名著。
俳句は一度じっくり勉強したいと思っている。老後に。
使う教材は決まっている。藤田湘子の『20週俳句入門』。厳しくて身に付きそう。
というわけで、俳句も少しかじった程度なのだが、短歌は情熱的でキザ、俳句は理性的で野暮ったいイメージ。『短歌パラダイス』でも著者がこのようなことを言っていた気がする。詩も短歌も俳句もできる高橋睦郎という人もいるが。
俳句は、字数が少ないので季語がいろんな意味を含有している。言い換えれば、季語がキャラを背負っている。だから、この季語はどういうキャラか、という知識、勉強、経験が必要となる。
それと、「取り合わせ」という手法。これは「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」に似ていて、感情を揺さぶる。つまりシュール。
シュールが、さも当然です、という体で立ち振る舞っているのが「取り合わせ」と思っている。
感情炸裂の短歌では性を扱うものがまあまああるが、俳句にはあまりない。
身をそらす虹の/絶巓/処刑台 高柳重信
この句も性的な歌です、と言われねばわからない。
おそるべき君等の乳房夏来る 西東三鬼
こういうのもあるが性的という感じではない。