40歳を過ぎているが、これほど自分が物事をわかっていないのかと思う。
子供の頃は、大人になったら何でも知っている状態になっているだろうと思っていたが、その発想のまま大人になってしまった。
しかし、これはよく言われることだ。
高校球児や横綱がいつの間にか年下になっているのと同じ現象。
哲学についても、大人になったら何なのかわかると思っていたが、結局わかっていない。
生きているうちにわかることはないのだろう。
とは言え、興味はあったので、哲学とはなんだろうということにアンテナを立てながら生きてきた。
どこかに書いてあった文章で、印象に残っている物がある。
哲学とは、証明ができないが、なんとなく多くの人々が正しいと認めるものを捕まえることである、というようなことが書いてあった。
哲学の中でも、観念論に寄った説明なのかもしれない。
例えばゲシュタルト崩壊。
書き慣れた漢字が、間違っているように見えるような感覚。
説明できないが、ゲシュタルト崩壊と名前がついているので、多くの人々に共通の現象なのだろう。不思議だ。
こういうものを世界に当てはめたときに、自分と他者では世界を同じように認識しているとは限らない(例えば色などは全く同じように見えているとは限らない)が、自分と他者で世界を共有できているところが多いので、世界というものが存在しそうだ、ということ。
カントはこういうことを突き詰めていったのだと思う。そして、世界は存在しないかもしれなが、存在するものと考えたら辻褄が合うのでそれでいいじゃん、と。
ドゥルーズもこの延長線上だと思う。証明はできないが、世界というものはこうです、というような。リゾームですみたいな。
ポストモダンは最初はさっぱり理解できなかったが、世界はこうなのです、ということを言おうとしている、なぜなら哲学はそういうものだからだ、という切り口から挑むと、少し理解できるようになった気がする。