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哲学

受験勉強としての現代文

 大学に入るまではそれほど本を読まなかった。

 現代文の勉強には「新書」を読めば良いということだったが、「新書」って何という感じだった。

 兵頭宗俊の現代文の講義は面白かったということを思い出し、懐かしくなったので参考書を探した。

 『兵頭宗俊 実戦現代文講義の実況中継』を手に入れて、読んだ。

 この先生が面白いのは、参考書としてのわかりやすい説明の中に、文学的な哀愁のようなものが感じられる点だ。

 この本の中に、まさに受験勉強として現代文を勉強する意義に触れていた。

 現代文で取り上げられる文章は研究論文であり、一般的な感覚とはズレているもの。こういうものをたくさん読むことで、知恵や知識を蓄えることができる、とのこと。

 私もこのような点が楽しくて、現代文を勉強した。自分の一般的な感覚にない、変化球の感覚に触れられるということだ。

 知的生活や知的生産性に憧れることと、一般的な感覚とはズレているものの収集は同じベクトルなのだろう。

 しかし、一般的な感覚とはズレているものに浸ることは良し悪しだ。

 ズレている感覚が自分の中でスタンダードになってしまうと、世間で生きづらい。

 社会人をやると痛感する。

 一般的な感覚に反対ばかりする、逆張りばかりの嫌な奴となってしまう。

 嫌なやつになるのは嫌だから、一般的な感覚に反応せずに感情を内側に閉じ込めてしまう。

 しかも、一般的な感覚ではないズレた感覚のほうが優れているものと錯覚し、驕ってしまう。

 驕らないように律して生きることになるが、この発想もそもそもいけ好かないものだ。