Netflixでグリーンブックを観た

Netflixでグリーンブックを観た。

1960年代のアメリカ南部。黒人ピアニストのドン・シャーリーと、イタリア系白人の運転手トニー・リップが旅をする。差別が制度として存在していた時代の話だ。

観ているうちに、主人公がウイスキーを飲む場面が出てきた。

つられて私も飲んだ。

こういうのが人間的で幸せなのだと思う。映画の登場人物と同じものを飲む。画面の向こうの時代と、今の自分がほんの少しつながる。言葉にするとたいしたことではないが、その瞬間はたしかに豊かだった。

差別テーマの作品に引き寄せられてきた

グリーンブックに限らず、差別をテーマにした作品をずっと追いかけてきた。

映画では、レニ・リーフェンシュタールのドキュメンタリー。ショア(クロード・ランズマン監督、9時間半の証言映像)。アイヒマン裁判の記録映像。

人物では、杉原千畝。オスカー・シンドラー。

思想家では、エマニュエル・レヴィナス。テオドール・アドルノ。ジョルジュ・バタイユ。ヴァルター・ベンヤミン。スーザン・ソンタグ。

なぜここまで引き寄せられるのか。

原点は、小学校3年生の教室にある。

熱血教師との出会い

小学3年生のとき、担任の先生が変わった。

若い先生だった。当時の私は8歳。先生は最低でも22歳。今から考えれば、ほぼ子どもだ。

しかしその先生は、圧倒的だった。

差別を絶対に許さなかった。授業中も、休み時間も、給食の時間も。差別的な言動が少しでも出ると、真剣な顔で向き合った。怒鳴るのではない。諭すのでもない。ただ、本気だった。

「これは絶対にいけない」という信念が、全身から出ていた。

保護者からの人望も厚かった。熱血教師という言葉がそのまま似合う先生だった。私は3年生、4年生と2年続けてその先生が担任だった。

ブーメランを一発で割った先生

そんな先生にも、笑える思い出がある。

先生が新婚旅行でオーストラリアへ行った。お土産は木のブーメランだった。

投げたら戻ってくるはずだ。先生もそう思ったのだろう。グラウンドに出て投げた。

地面に叩きつけられて、一発で割れた。

先生は言った。「草が生えているようなところで使うものだからなあ」。

その通りだった。砂のグラウンドで投げたら割れる。誰も否定できなかった。壊した後の言い訳ではなく、本当にそう思っていた顔だったのがおかしかった。

音楽もよく聴かせてくれた

先生は音楽もよく聴かせてくれた。

長渕剛の「順子」。たまの「さよなら人類」。THE BLUE HEARTSの「情熱の薔薇」。大事MANブラザーズバンドの「それが大事」。KANの「愛は勝つ」。槇原敬之の「どんなときも。」

1990年前後の名曲ばかりだ。

田原俊彦の「ごめんよ涙」もよく流れていた。当時の私には「なんとなく古い人」という印象だったが、おそらく先生は「教師びんびん物語」の影響を受けていたのだろう。田原俊彦が熱血教師を演じたあのドラマだ。先生の気質とぴったり重なる。

大人になって田原俊彦の映像を見ると、ダンスが圧倒的にうまい。歌いながらあれだけ動く。今見てもとてつもないと思う。

差別への感受性は、良し悪しだ

2年間、差別を許さない教育を受けた結果、私は差別に過剰反応するようになった。

良し悪しだと思っている。

世の中が右傾化するとき、差別への感受性は枷になる。声を上げれば「面倒な人間」と見られる。空気を読まない人間と距離を置かれる。

逆に、社会が平和で穏やかな時期には、その感受性は一石投じ得る意見になる。

文脈次第で、同じ感受性が武器にも重荷にもなる。消耗することも多い。それでも、あの教室で刷り込まれたものは消えない。

差別は金銭を生むツールにもなる

逆説的なことも言う。

差別は、金銭を生むツールになることがある。えせ同和問題がその典型だ。部落差別への恐怖心を利用して、企業や個人から金を巻き上げる。差別される側の痛みを逆用する構造だ。

差別をなくしたいという純粋な動機が、悪用される余地を生む。差別を憎む気持ちが、差別を利用する人間に食い物にされる。

皮肉以外の何物でもない。

外国人への排他的な風潮について

昨今、外国人に対して排他的な意見が増えている。

「外国人が増えると治安が悪化する」「日本人の仕事が奪われる」。そういう声を頻繁に目にする。

私はそういう意見を見るたびに、ひとつのことが気になる。

その人の周りに、外国人の家族や友人、知人はいるのか。

外国人を批判する人の多くは、外国人と個人的な関係を持っていないのではないか。顔の見えない「外国人」という集団に対して、政治的な発言をしている。

もし身近に外国人の友人や家族がいたら、それでも同じことが言えるだろうか。それとも、その人だけは「特別扱い」をするのだろうか。

近くに誰もいないという前提で語るべきだ

政治的・社会的な発言をするとき、「自分の近くに当事者がいない」という前提で語るべきだと思っている。

外国人について語るなら、外国人の友人や家族がいる人間を想定して語れ。部落差別について語るなら、当事者が隣にいても言えることだけ言え。

差別の問題は、顔が見えたとたんに変わる。集団として見ていたものが、個人になる。個人になったとき、人はためらう。そのためらいが、本来の感覚だと思う。

人文が失われた世界は、どうなるのか

差別の問題は、数字では測れない何かを含んでいる。人間とは何か、という問い。その問いに向き合う営みを「人文学」と呼ぶのだと思う。

しかし大学から文学部、哲学科が消えていく。人文系は「役に立たない」と言われる。経営的な論理では、効率と利益が優先される。

差別が起きるとき、何が起きているか。相手を「人間」として見ることをやめることだ。

アイヒマンは「命令に従っただけ」と言った。アドルノが「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮だ」と言ったのは、文明の問い直しだった。

人文が淘汰されたとき、「相手を人間として見ること」を担う場所が消える。外国人排除の言説が強まる今、その危惧はより切実だ。

ウイスキーを飲みながら、そんなことを考えた

グリーンブックを観ながらウイスキーを飲んだ夜に、ここまで考えた。

主人公につられて飲んだ一杯が、小学3年生の教室まで引き戻してくれた。ブーメランを割った先生のことを思い出した。「情熱の薔薇」が頭の中で流れた。

映画とウイスキーと記憶が混ざる夜というのは、たまにある。

効率とは無縁だ。生産性もない。それでも、こういう夜があるから、差別に過剰反応する自分のことも、まあいいかと思える。

人文は役に立たないかもしれない。それでも、人間を人間として見続けるための装置であるなら、私はその側にいたい。

あの先生に、そう叩き込まれた気がする。